マクラーレン ~F1に魅せられた男~(2017) 挑戦し続けた男の、早すぎる死
F1チーム創始者の人物像
ブルース・マクラーレンは、インタビューで
「資金がもっとあったら、もっと勝てるか?」
と問いかけられ「ダメになる」と答えた。
「組織は、巨大になりすぎると融通が利かなくなる。身軽な方が戦いやすいね」
ガソリンスタンドを営む父の隣で、子どもの頃から自分で車を修理・整備していた。
父親もレースの選手であり、ブルースもレースの道へ。
しかし、彼は重い障害を持っていた。
大腿骨の先が潰れる「ペルテス病」という重病を患っていたのだ。
二年も治療器具つきベッドで固定された。
1950年代、レースの才能があった彼は、学生ながら優勝。
F2の車をなんと自作し、F1との混合レースに出場。
F1の車を抜き始め、F2部門で優勝した。
後にF1の大会にも出場し、初優勝した。
彼は時の人となる。
だが、彼は事故に遭ってしまう。
独立。自分の名前でF1優勝
退院直後、マクラーレンは自分のチームを作った。
1960年代に、自作のチーム、自作の車で優勝した。
航空機の技術者を雇い、新たなF1カーは設計された。
航空力学を、レーシングカーに応用したのだ。
1967年、北米のレース「カンナム」用の車を三ヶ月という短期間で製造。
しかし、トラブルが発生し、マクラーレンはほぼ周回遅れでスタート。
ここからがすごかった。怒濤の追い上げを見せて、なんと二位でゴールするという快挙。
後のF1レースで、マクラーレンは自分の作った車で、優勝した。
F1で自分の名前がついた車で優勝したレーサーは、史上二人目で、以降生まれていない。
ポイント:挑戦し続けた人生
レーサー時代、マクラーレンはテストレーサーを亡くしている。
そのときの悼辞に、マクラーレンはこう述べている。
「彼は一生分生きた。人生はどれだけ挑戦してきたかだ。生きた長さではない」
この言葉を、まさかマクラーレン自体が証明してしまうとは。
1970年の頃だ。
ウイングを挙げすぎた車でテスト走行をしていた時、事故を起こしてしまう。
バランスを失い、小屋に突っ込んだのだ。
即死だった。享年32歳。
当時のマクラーレンは、インディもカンナムもF1も全部に出場すると意気込んでいた。
無理をしていたのだ。
ハードワークが祟った、あまりにも早すぎる死である。
だが、葬儀の二週間後には、レースが待っている。
従業員たちは、仕事に戻った。
「彼ならそうするだろう」と、誰もが思っていたからだ。
ドライバーを引き受けたのは、マクラーレンの友人だった。
彼は優勝でマクラーレンを弔った。
まとめ
明日、何があるか誰にも分からない。だから、今日を精一杯生きる。
余談
企画発動から10年、ようやく映画は完成したという。