絶・対・に・創作の役に立たない映画評のブログ

創作に役立つ、オススメの映画を紹介

誰もがフレディに魅了される、たった一つの理由 『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)

f:id:pixymoterempt:20190104182450p:plain

ヒゲ面のゲイが、スーパースターになる話

 

不遇な青年時代から脱却


 厳格なゾロアスター教信者の両親に嫌気が差して、夜な夜なライブハウスに入り浸る主人公。
 彼はちゃんとした名前があるが、「フレディ」を自称している。

 

 ボーカルがいなくなったバンドに声をかけ、仲間に入る。
「出っ歯で歌えるのかよ?」とメンバーから言われたが、だからこそ音域が広かった。

 

「女王陛下(クイーン)」と名乗ったバンドは、サイケなファッションに身を包み、地下バンドから一気にスターへと上り詰めていった。

 

 大手レコード会社と契約し、彼らが作り上げようとするのは、オペラのアルバムだ。


「アホか! 六分もラジオで流せるかい!」
 プロデューサー激怒。
 
 当時、

「三分以上の音楽はラジオで流せない」

 というルールが存在した。

 

 「それなりの曲があるからええやん。これでいけや!」
 と、別の曲を売り出そうとするプロデューサー。


 クイーンは彼の元を離れ、更に高みを目指す。

 だが、成功はフレディを段々と傲慢にしていく。
 その矛先は、バンドメンバーにすら向けられて……。
 
 

俳優が実際に演奏


●この映画のポイント

 元旦に見に行った。映画の日だったので。
 見終わった後、歩いているオレの後ろで、すすり泣く声が多く聞こえた。
 
 オレは二回泣きそうになった。

 

 一つはのライブシーンを奥さんと一緒に見る場面だ。


 フレディは、「言葉が通じない国(多分、東京かと)」で歌うのが不安だった。


 その不安を客が吹き飛ばした。

 一緒に歌ってくれたのだ。

 それゆえに、その直後のゲイ告白シーンは切ない。

 

 もう一つは、もちろんラストのライブシーンだ。


 自分で歌ってるって聞いて、慌ててニュースをチェック。


 本当に歌っているらしい。

 

「そうでなきゃ、臨場感が出ないからね」

 と監督談。

 

 徹底的なリアリティに拘った監督は、俳優たちに楽器まで演奏させたとか。


 演奏シーンは、ほとんど自身で演奏しているらしい。

 

 また、最後のライブシーンは、観客の視点を排除したという。


「フレディと一緒にライブに出ている、という感触を味わって欲しかった」

 

 と、監督は語っている。

 

 表題のボヘミアン・ラプソディだが、
「自身のゲイ告白を表現した歌」
 との説もある。
 

 

出っ歯のゲイがスーパースターに

 

●創作の役に立つ?

 

 彼の生き様自体が、すでに物語だ。


 
「出っ歯のゲイがスーパースターになって、ロックで世界を変える話」


 このテーマだけで、既にカタルシスが発生している。

 

 最初、彼はブサイクな自分を捨てた。

「パキスタン人」って蔑称だったんだな。


 家族を、恩人を、マネージャーを、恋人を、最終的に友達まで捨てた。
 
 だが、自分が死ぬと悟った彼は、今度は刹那的な生き方を捨てた。


 全てを取り戻し、かつて自分が捨てた仲間と、手を取って立ち上がる。
 そういう物語である。
 
 彼が最初からイケメンだったら、こんな映画にはなっていない。

 彼は決して格好良くない。


 出っ歯・ヒゲ・タンクトップなど、美的センスもズレている。


「ムダを削ぎ落とした」
 とも読み取れるが、
「誰もが捨てるであろう要素を全部自身に装着させた」
 とも見て取れる。
 
 普通のオッサンがここまでやったら、誰も振り向かないだろう。

 

 だが、フレディは振り向かせてしまう。
 それだけのカリスマなのである。


 欠点だらけだからこそ、彼はここまで輝けた、とも思える。
 コンプレックスを武器に変えて、彼はのし上がってきた。

 

 だが、その自分を演出するために、どこまで努力をしていたか、というのをこの映画は描いているのだ。


 大胆にならざるを得なかっただろし、プレッシャーもあっただろう。
 事実、彼は「クリエイティブのため」と言い訳して、クスリに手を出している。
 
 決して、元々カリスマ性が備わっていたわけではない。

 

 そういった苦悩、また、彼女がいるのにゲイであるという矛盾と、常に対決する。

 

 そこにドラマが発生し、あのライブへと繋がっていく。

 

「人が死ぬ話なのに、どうしてこうも活き活きと描かれているのか」


 は、ここにヒントがある。
 

 

 

とんでもないヤツを作る

 

●結論
 

 よく、
「益を得るのは読者を先にすべきか、作者が先か」
 という議論が、度々話題になる。

 

 個人的に、益は作者にあった方がいいかなーと。
 作者が潤っていないと、創作どころではないのだ。


 作中でも、フレディは仲間のボロ車を売って、CDの制作費に充てている。

 
 ただ、オレの個人的感想として、
「とんでもないヤツを見たい」
 という感情はある。

 

 それを生み出すには、
自分がとんでもないヤツになるしかないのかな」 
 とも思えるのだ。

 

 映画では、フレディとバンドメンバーの亀裂が決定的になったシーンがある。
 仲間に黙ってソロデビューを決めたフレディは、

 

「オレが加入しなかったら、お前は歯科医になるしかなかったんだぜ」

 

 と、メンバーを罵る。

 

 だが、フレディはメンバーの元へ戻ってくる。
 その時に言った「ソロ活動についての感想」が、実にもの悲しい。
 天才故の孤独が、その言葉に全部詰まっているのだ。

 

 
 世間にツバを吐き、石を投げつけても、ダメな時はダメ。
 ならば、ヨイショされ続けてもダメなのだ。


 
 ボヘミアン・ラプソディは、


「どんな目に遭わされても、オレはやってやるぜ」

 

 という、開き直った男の歌だ。
 

 あなたは、それなりの作家で留まりたいか。
 なら、それでもいいだろう。

 あるいは

「周りから誤解されても、とんでもないヤツ」

 を目指すもいい。
 
 少なくとも、オレはフレディに対して、
「彼に金を落としたい!」
 と思ったよ。

「こういう生き方をすべきだ」
 なんて、説教臭い映画ではない。