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ゴールをぶっ壊せ - 夢の向こう側までたどり着く技術 /影山ヒロノブ 感想 アニソンシンガーが教える挫折の乗り越え方!

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東住吉の少年が、影山ヒロノブになるまで

 

 もはや、アニメ好きで影山氏の名前を知らない人はいないだろう。
 では、影山氏はどのようにしてみんなに愛されるアニソン歌手へとなったのか。

 本書は、そこに至るまでの苦労話が書かれている。 
 実は、まったく順風満帆ではなかったことが分かった。

 彼は「DBZ」の主題歌を歌うまで、建設現場でバイトをしていたという……。

 
ギターを求めてバイトの日々

 影山少年は、友達の兄の影響でギターを習いたいと考える。
 実家の理髪店を手伝い、八百屋の仕事もこなす。
 バイトで貯めた一万円を使ってギターを購入。
 吉田拓郎泉谷しげるをカバーする日々を送る。
 洋楽に触れてからはエレキが欲しくなり、また八百屋でバイトして購入した。

 ギター仲間の一人がバンドをしたいと言い出す。
 それが、後にLAZYの原型となった。

 

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LAZY結成、売れないソロ時代

 オーディションに落ちたLAZYのメンバーは、大胆にもかつての友人を切り、新しいメンバーに入れ替えた。
 かまやつひろし氏に見初められ、プロの道へと進むことに。
 両親から当然反対されるも、事務所の偉いさんが直接説得しに来るなどがあって、無事にデビューを果たす。

 だが、ロックスターになりたかった彼らを待っていたのは、「アイドル路線」だった。

 三枚目のシングルで、ようやく花開いたLAZY。
 とはいえ、取り上げてくれる雑誌はどれも「平凡」「明星」などのアイドル雑誌である。

 五枚目のアルバムで、影山氏のハスキーボイスでヘビメタは無理と判断。音楽性の違いが決定してしまう。
 LAZYは解散した。

 ソロデビューするも、全く売れない。何を歌ってもまったくあいてにされなかった。
 かつてのヒット曲を歌うという安易な選択を迫られ、応じてしまう。

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 業界からも終わった呼ばわり。
 当時は奥さんもいて、生活に困っていた。
 限界を迎えた影山氏は、音楽仲間から建設現場のバイトを紹介してもらう。

 目的を見失った彼を救ったのは、特撮だった。


 

特撮との出会い

 売れないソロ時代を経て、スーパー戦隊シリーズの主題歌を担当することになった。
電撃戦隊チェンジマン」である。

 意気込んで収録に挑むも、ディレクターが大激怒した。
「アレンジが気持ち悪い! そんなんでは、子どもたちに伝わらない!」
 
 
 何回か歌った後、

 

「この歌詞が誰に向けられているか、ちゃんと読め」

 

 と言われ、収録も強制終了。

 

 後日、ようやくOKがもらえる。
 分かったのは、ディレクターはロックアレンジは嫌いだが、影山氏のロックで鍛え抜かれた声は欲しかったと言うこと。
 気持ちよくロック風に歌うだけでは、子どもには伝わらないのだと教わった。

 その後、ヒット作に恵まれる。
 これまで女性ばかりだったファンも、男性がチラホラ目立つように。

 だが、彼はあくまでもロック歌手だと考えがある。アニソンは子ども向けの歌だから、誰も聞きたがらないだろうと、ライブで歌うのは控えていた。

 だが、堀江美都子さんから「もっとアニソンをすべきだ」とアドバイスを受け、遠慮を捨てる。

 すると、お客さんが更に盛り上がってくれるようになった。

 今日まで、影山氏が歌ったアニソンは1000曲を超える。

 

CHA-LA HEAD-CHA-LA』を歌っているときでさえ、影山氏は建設現場で働いていたというから驚きだ。


 横浜空港の管制塔や、ランドマークタワーは氏が関わっているそうだ。
 
 
アニソンのライブは2000年代から変化した感じ

 それまで、アニメソングのライブはファン向けのイベントだったと語る。

 ロボットアニメを歌うライブを開催して以来、アニソンが世間に認知されるようになってきたそうだ。
 借り物ではなく、自身でアニソンを手がけるアーティストも増えてきたという。

 ブラジルでライブをやってくれと言われて、どれだけくるかと思ったら、4000人ものお客さんが待っていた。
 日本語の歌詞なのに、みんな口ずさんでいる。
 台湾でも3500人の前で歌い、「アニソンに国境なし」を痛感したという。
 

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影山氏のこだわり

 氏は、アニソン歌手として生き残る方法は、「自分でも作り上げる」ことだと語る。
「借り物をいくら上手く歌えたからと言って、時には自分でも音楽を作れるようになっていなければ、生き残ることは難しいだろう。歌うことはできる。しかし、アニソンシンガーという職業にはなれない」
 というのが、氏のポリシーである。

 それは、事務所の社長に武者修行として同行した「ノーギャラのライブ」で鍛えられたからだ。


 影山氏は、過去の遺産にすがることを由としなかった。
 彼は意地でも音楽を作り上げる。
 結果、音楽を作ること自体の楽しみを知ることができたと、当時を振り返る。
 
 馴染みが薄くとも、氏はオリジナル路線にこだわった。
 海外でも同様の意地を見せて、お客さんもそれに応え、盛り上がったという。


 アジアカップで日本が勝利したときに、氏の参加するバンド「JAM Project」の曲がかかった。
 このとき、アニソンはようやく偏見がなくなったのでは、と語っている。

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まとめ:ゴールは終わりでしかない。だからぶっ壊す

「終わった」と言われても止まらなかった。
 決して諦めなかった。
 自分の可能性を信じた。
 夢を諦めず、前進していった。
 
 ゆえに、影山ヒロノブという人間がある。

 ゴールを定め、未来を限定しないこと。
 変化の激しい世界を生き延びる術が、本書には詰まっている。